わが歌のありかぎり 藤圭子(完)

 ここで、同時代に同じ曲を歌った人物を、一人挙げておこう。

 梶芽衣子もまたこの曲を自己流に読み替え、『芽衣子の夢は夜ひらく』と題して歌った。梶は藤圭子より三歳ほど年長で、1960年代中頃に日活青春映画でデビューしたが、その後、『野良猫ロック』『女囚さそり』『修羅雪姫』といったシリーズで、反抗と復讐心に満ちたヒロインを演じ一世を風靡している。二人が歌ったのは、1970年代初頭、安保闘争の二度目の敗退から連合赤軍事件にいたる二年の間である。彼女たちはともに怨恨と後悔、絶望と孤独を歌い、また演じた。


 梶芽衣子と藤圭子とは、どこが異なっているのだろうか。芽衣子のヴァージョンを聴いた後で圭子のヴァージョンに戻ったとき、『夢は夜ひらく』という曲は、どのような違った相貌をわれわれに見せてくれるのだろうか。


 梶芽衣子はまず1番を気ままなスキャットで通してしまう。如何にも自由になった女が、心の趣くままに歌えるようになりましたよという、報告兼意思表示といった感じである。彼女は人生そのものへの呪いは口にしない。軽いフルートの伴奏とともに歌われるのは、一人の男への恋愛の挫折である。

 藤圭子の声は、伴奏の「咽び泣く」サックスを模倣するかのように、語尾において激しい振動を見せる。しかし、梶芽衣子は言葉を濁さず清澄な形で分節していく。彼女は知らないうちに、次の世代に出現する中島みゆきを受胎しているのだ。梶芽衣子は『女囚さそり』や『修羅雪姫』といった東映映画の中では怨恨と憎悪の徒を演じたが、そのありかは藤圭子とは大きく異なっている。内閉と凝縮の後に、突然に自爆が生じるのだ。  

 
 藤圭子には爆発の契機があらかじめ失われている。無垢が蔑ろにされ、虚言と悪が咲き誇る夜の世界にあって、彼女はただ抑圧されるままに留まる。もはや抵抗はない。度重なる背信の結果、抵抗の芽は摘み取られ、幼くして諦念だけが彼女の心に宿ることになった。

 九鬼周造は、「粋」を定義して、媚態と、意地と、諦念の結合であるとした。藤圭子には最後の二つは文句なく揃っているが、男に依存して生き延びようとする媚態はない。彼女の孤独と忍従と、聴く者をして畏怖へと至らしめるばかりだ。梶芽衣子が泣くために生まれてきたと開き直るとき、藤圭子は泣くのをじっと耐えている。前者は失恋に意気消沈しているだけだが、後者は男女の痴話げんかなど通り越して、人生そのものを呪っている。

 

 藤圭子の栄光は長くは続かなかった。喉にポリプが生じるまで絶叫するというその唱法は、かつて浪曲師に特有の修行法ではあった。だが、1970年代も半ばに至ろうとするころには時代遅れであり、人々はこうした自己犠牲的な歌いぶりに対し、しだいに冷淡な態度をとるようになった。藤圭子はポリプを摘出した結果、ひどくマイルドな声になり、ここで憑きものが落ちてしまったかのようになった。彼女がみずから選んだ「藤圭似子」という芸名ほどに、残酷に彼女の物語っているものはないだろう。藤圭子の偽物という意味だからだ。

 
 ひとつの残酷な人生が終わった。わたしは彼女を追悼するために、ボブ・ディランの『ライク・ア・ローリング・ストーン』の音盤を聴く気にはとてもなれない。