わが歌のある限り(4)

 夜になると開いていく夢とはいったい何であるのか。
性的な欲望なのか、真正の恋人なのか。あらゆる絶望にもめげずまだ壺の底に隠れ潜んでいるような、人生をめぐる期待なのか。
 この歌は最後までそれを曖昧にしか語らず、聴く者に謎を仕掛けている。

 「夢は夜ひらく」という歌詞は、ルフランとして六度にわたって反復される。最初は小さく、開花を待つ蕾のように。やがて二番、三番と進んでいくうちに声が開いていき、いわゆる凄みが出てくる。藤圭子のハスキー声には(よく耳を澄ませて聴いてみると判明するのだが)沢山の孔が開いている。意図せずしてたどたどしく歌おうとすると、声がときどき途切れ、多孔性の声肌が傷ましく浮かび上がっている。
 ここに到って、歌唱という行為が、ヴァルネラビリティ(外傷誘発性)に満ちたものとして現前する。「夢は夜ひらく」というルフランは、六番の結末部にいたってより強く、一呼吸おいた上で、あたかもすべてを吐き出すかのように歌われる。
 藤圭子はこれまでの来歴のすべてを振り返るかのような身振りで、夢の現前をより強烈に確認しようとする。

 だが、その夢が虚飾であり、もはや結実から見放された徒花でしかないことを、すでにわれわれは知っている。この曲が体現しているのは、巨大なアイロニーである。