大宅壮一文庫は、週刊誌。月刊誌記事のタイトルを取り出し、人名別に整理しているが、女性週刊誌を中心に藤圭子の記事は随分とある。(中略)

 スター歌手がスター歌手と結婚し、ハッピーな家庭を築く。結婚生活は短期間で破綻するが、もう「私の人生暗かった」といっても似合わない。前川と離婚後、藤は声帯ポリープの除去手術を受けている。結果、声は澄んだものとなったが、特有のドスのきいた低音は失われた。

 

 この前後の歌手活動について、榎本は「素人の悲しさ」とも評した。(中略)

 
 藤がスターになって変わってしまったことが問題なのか。いや変わらなかったことが問題なのだと榎本はいう。

 
 歌謡界の女王・美空ひばりが日本コロンビアを訪ねると、車の入り口には赤い毛氈が敷かれ、社長以下重役がずらっと並んでひばりを迎えた。ひばりはメンタイコが好物だった。どこかの地方公演の楽屋で「食べたいわね」とひと言もらすと、その地域にメンタイコがあろうがなかろうと、それを求めて人々は駆けずり回った。

 
 噴飯モノの光景である。けれども、わがままを貫いてこそスターなのだ。スターのわがままは人々をびくつかせ、遠ざける。一線を画した孤独性がまた、舞台やスタジオでの存在感を誇示するものとなる。

 
 その意味では、藤は「まるで変わらない娘」だった。楽屋では、みんなと一緒に幕の内弁当や鮭弁当をぱくついている。

 
 前川との婚約が進んでいたとき、藤は榎本に、別れの歌を歌うのは嫌だと言い出した。結婚して幸せになるのに不幸な歌は歌えないというのである。歌は実生活と関係がない、それがプロの歌い手だと言ってもなかなか納得しなかった。

 
 藤が売れっ子歌手になってから、石坂は歌作りよりマネージャーの業務で日々追い立てられていく。1972(昭和47)年に発表された『京都から博多まで』は作詞・阿久悠。作曲・猪俣公章によるもので、はじめて石坂の手を離れた曲である。 


 藤の新しい面を引き出し、イメージ転換を図ろうとしたものだった。歌はそこそこヒットしたが、かつての〈藤圭子〉の歌ではもうなかった。その後、石坂がふたたび歌詞を書くが、もうヒットすることはなかった。


 藤と石坂の関係はトラブルや仲たがいもなくて良好だったが、それぞれの道を歩んでいったほうがいいうという判断で、やがてコンビを解消している。その“晩年”、ステージで歌う藤の姿を見ながら、かつてこの歌手にまとわりついていた「異様な迫力」が失われていることを石坂は感じていた。